学び舎で育んだ思いやりの心 舞台で学んだ一生鍛錬の志
歌舞伎俳優 中村 雀右衛門さん
2017/05/10
立教卒業生のWork & Life
OVERVIEW
女方の大名跡の一つ「中村雀右衛門」の五代目を襲名した中村雀右衛門さん。小学校から大学まで立教で過ごした中で得たもの、そして今雀右衛門さんが見据える風景についてお話を伺いました。
2016年3月、女方の大名跡の一つ「中村雀右衛門」の五代目襲名披露が東京?銀座の歌舞伎座で行われた。父からその名跡を継いだ中村雀右衛門さんが初舞台を踏んだのは、さかのぼること50年以上前、わずか5歳のとき。そしてその翌年、雀右衛門さんは立教小学校の門をくぐった。
「グレーのダブルのブレザーに半ズボン、紺色のキャップに赤いネクタイ。今も変わらないその立教小学校の制服が両親にはよほどかわいく映ったらしく、わが子も通わせたいと思ったようです」
まだ戦後の名残のある池袋のバラック街が通学路。「立教は小学校が一番駅から遠い。大人ならなんてことない距離ですが、まだ身体の小さい低学年の頃は遠いなぁ、つらいなぁと思いながら通っていました」。雀右衛門さんは懐かしそうに目を細める。
始業の前にはお祈りを。「友達はスラスラ言えるのに、僕はボーッとしていて上手にできなくて」と苦笑いするが、「キリスト教の教えを通じ、周りに感謝する気持ちが自然と育まれたように思います」と振り返る。
学校帰りには、ランドセルを背負ったまま電車とバスを乗り継いで日本橋浜町へ踊りの稽古に通った。子役として舞台があるときは早退したことも。
「同じ歌舞伎役者の家に生まれても、芝居が好きで好きで役者になる人もいる。でも私にはそういう強い意志はなく、かといって疑問や反抗心を持つこともなく、お稽古もお芝居もやるのが当たり前、という感覚でした」
しかし中学時代、一度だけ母に尋ねたことがある。「自分はなぜ役者をやるのか」と。すると母はひと言、こう答えたという。「やるからやるのよ」。
「まるで禅問答」と雀右衛門さんは愉快そうに笑い、こう続けた。
「母は七代目松本幸四郎の娘として役者の家に生まれ育ち、役者の女房になった。だから、役者の子が芝居をやらないなんて考えたこともなかったのでしょう。私も母のその言葉に『そんなものか』と妙に納得してしまって」
中学、高校は鉄道研究会に所属。カメラ少年でもあった雀右衛門さんは、仲間と「撮り鉄」の旅にも出掛けた。当時、立教高校(新座)の敷地内に置かれていた東武鉄道の蒸気機関車をピカピカに磨きあげたのも懐かしい思い出だ。
「グレーのダブルのブレザーに半ズボン、紺色のキャップに赤いネクタイ。今も変わらないその立教小学校の制服が両親にはよほどかわいく映ったらしく、わが子も通わせたいと思ったようです」
まだ戦後の名残のある池袋のバラック街が通学路。「立教は小学校が一番駅から遠い。大人ならなんてことない距離ですが、まだ身体の小さい低学年の頃は遠いなぁ、つらいなぁと思いながら通っていました」。雀右衛門さんは懐かしそうに目を細める。
始業の前にはお祈りを。「友達はスラスラ言えるのに、僕はボーッとしていて上手にできなくて」と苦笑いするが、「キリスト教の教えを通じ、周りに感謝する気持ちが自然と育まれたように思います」と振り返る。
学校帰りには、ランドセルを背負ったまま電車とバスを乗り継いで日本橋浜町へ踊りの稽古に通った。子役として舞台があるときは早退したことも。
「同じ歌舞伎役者の家に生まれても、芝居が好きで好きで役者になる人もいる。でも私にはそういう強い意志はなく、かといって疑問や反抗心を持つこともなく、お稽古もお芝居もやるのが当たり前、という感覚でした」
しかし中学時代、一度だけ母に尋ねたことがある。「自分はなぜ役者をやるのか」と。すると母はひと言、こう答えたという。「やるからやるのよ」。
「まるで禅問答」と雀右衛門さんは愉快そうに笑い、こう続けた。
「母は七代目松本幸四郎の娘として役者の家に生まれ育ち、役者の女房になった。だから、役者の子が芝居をやらないなんて考えたこともなかったのでしょう。私も母のその言葉に『そんなものか』と妙に納得してしまって」
中学、高校は鉄道研究会に所属。カメラ少年でもあった雀右衛門さんは、仲間と「撮り鉄」の旅にも出掛けた。当時、立教高校(新座)の敷地内に置かれていた東武鉄道の蒸気機関車をピカピカに磨きあげたのも懐かしい思い出だ。
大減量を成し遂げ女方としての覚悟を決める
学校生活を満喫しながら、舞台にも立ち続けた。
父である四代目中村雀右衛門さんは名女方として活躍していた。自身も体格が大柄ではなかったこともあって、自然と女方を目指すように。しかし、太りやすい体質で「小学校の頃はグレーのブレザーもパツンパツン(笑)。『君はお相撲さんになるの?』なんて聞かれることもあったほど」。相変わらずぽっちゃりしていた高校時代、叔父の二代目尾上松緑さんに声を掛けられ、名古屋?御園座での公演「京人形」に井筒姫というお姫様役で出演することに。この演目で、井筒姫はかくまわれていた戸棚から飛び出し、助け出されるという設定。ところが……。
「ムチムチ、パンパンだったものだから、戸棚からうまいこと出られず、えらい騒ぎに(笑)。松緑の叔父から『女方でそれじゃあまずいよ。痩せなさい』と言われ、それが悔しくて」
一念発起し、名古屋公演中の約1カ月で10キロ以上もの減量を成し遂げた。
「このとき、歌舞伎役者として、そして女方として、心身ともに自覚と覚悟ができたように思います」。
大学は社会学部社会学科へ進学。役者として生きる上でも役に立つ幅広い見識を深めようと考えた。大学でも鉄道研究会に所属し、勉強に、仲間との交遊にと、青春を謳歌した。
「立教で得たもの、それは仲間や周りの人に対して優しさ、思いやりを持つ心です。教わったというよりも、自由でおおらかな校風の中で自然と体に染み込んでいった。そんな感覚でした」
自身の経験をそう回想しながら、後輩たちにこんな言葉を送る。
「学業だけでなく、人として成長する上で学ぶべき大切なことが立教の学び舎にはたくさんある。そして、それが仲間とのつながりの中で熟成され、一生の宝になっていくのです」
父である四代目中村雀右衛門さんは名女方として活躍していた。自身も体格が大柄ではなかったこともあって、自然と女方を目指すように。しかし、太りやすい体質で「小学校の頃はグレーのブレザーもパツンパツン(笑)。『君はお相撲さんになるの?』なんて聞かれることもあったほど」。相変わらずぽっちゃりしていた高校時代、叔父の二代目尾上松緑さんに声を掛けられ、名古屋?御園座での公演「京人形」に井筒姫というお姫様役で出演することに。この演目で、井筒姫はかくまわれていた戸棚から飛び出し、助け出されるという設定。ところが……。
「ムチムチ、パンパンだったものだから、戸棚からうまいこと出られず、えらい騒ぎに(笑)。松緑の叔父から『女方でそれじゃあまずいよ。痩せなさい』と言われ、それが悔しくて」
一念発起し、名古屋公演中の約1カ月で10キロ以上もの減量を成し遂げた。
「このとき、歌舞伎役者として、そして女方として、心身ともに自覚と覚悟ができたように思います」。
大学は社会学部社会学科へ進学。役者として生きる上でも役に立つ幅広い見識を深めようと考えた。大学でも鉄道研究会に所属し、勉強に、仲間との交遊にと、青春を謳歌した。
「立教で得たもの、それは仲間や周りの人に対して優しさ、思いやりを持つ心です。教わったというよりも、自由でおおらかな校風の中で自然と体に染み込んでいった。そんな感覚でした」
自身の経験をそう回想しながら、後輩たちにこんな言葉を送る。
「学業だけでなく、人として成長する上で学ぶべき大切なことが立教の学び舎にはたくさんある。そして、それが仲間とのつながりの中で熟成され、一生の宝になっていくのです」
芸を継承し、さらに進化させる「一生鍛錬、一生修業」
立教から巣立ってからも、女方として精進を重ね、芸を磨き続けてきた。歌舞伎役者のスケジュールは超ハード。1カ月のうち25日間は公演、残りの5日ほどは翌月の演目の稽古と、休みは月に1日あるかないか。さらに昨年春から今年にかけては襲名披露公演で全国を飛び回るなど、多忙を極める。そんな雀右衛門さんを癒してくれる存在、それが3匹の愛犬たちだ。
最初の出会いは、たまたま立ち寄ったホームセンターのペット売り場。ブリュッセル?グリフォンの子犬がガラス越しに尻尾を振っている。「かわいいけれど、いわゆる『ブサカワ』。この子は誰も買ってくれないかも……と思いながらふと情報カードを見たら、なんと誕生日が私と一緒。これもご縁と迎えることに」。その後、同じ犬種の2匹も加わり、今では仲良し3姉妹に。「妻との静かな生活が一気に賑やかになって」と雀右衛門さんは目尻を下げる。
五代目を襲名して1年余り。「まだまだ大きな名前に自分の体が合わず、ぶかぶかの服を着ているよう。努力し研さんし、成長を続けることで次第にフィットしていく。それが本当の意味での『襲名』なのだと思います」。改めて父の偉大さに気付かされる中、その父が口にした言葉が忘れられない。「70歳を過ぎて、ようやく女方ってものが分かってきたよ」。
雀右衛門さんは一昨年、還暦を迎えたところ。「ようやくスタートラインに着いた気分です」。とはいえ最近、「お父様に似てきましたね」と言われることが増えた。美しさで観客を魅了し続けた父の芸を継承しながらも、世話物などでひと味違う役や芸の幅を広げていく——。
雀右衛門さんはそんな風景を見据えている。
「伝統芸能とは先達から受け継いだものを今の時代に合わせて進化させていくもの。観ていただく皆さまに、今日よりも明日、明日よりも明後日、大きな喜びと感動をお伝えしていきたい。そのためにも、一生鍛錬、命ある限り修業していきます」
(2017年2月13日銀座「楼蘭」にて)
最初の出会いは、たまたま立ち寄ったホームセンターのペット売り場。ブリュッセル?グリフォンの子犬がガラス越しに尻尾を振っている。「かわいいけれど、いわゆる『ブサカワ』。この子は誰も買ってくれないかも……と思いながらふと情報カードを見たら、なんと誕生日が私と一緒。これもご縁と迎えることに」。その後、同じ犬種の2匹も加わり、今では仲良し3姉妹に。「妻との静かな生活が一気に賑やかになって」と雀右衛門さんは目尻を下げる。
五代目を襲名して1年余り。「まだまだ大きな名前に自分の体が合わず、ぶかぶかの服を着ているよう。努力し研さんし、成長を続けることで次第にフィットしていく。それが本当の意味での『襲名』なのだと思います」。改めて父の偉大さに気付かされる中、その父が口にした言葉が忘れられない。「70歳を過ぎて、ようやく女方ってものが分かってきたよ」。
雀右衛門さんは一昨年、還暦を迎えたところ。「ようやくスタートラインに着いた気分です」。とはいえ最近、「お父様に似てきましたね」と言われることが増えた。美しさで観客を魅了し続けた父の芸を継承しながらも、世話物などでひと味違う役や芸の幅を広げていく——。
雀右衛門さんはそんな風景を見据えている。
「伝統芸能とは先達から受け継いだものを今の時代に合わせて進化させていくもの。観ていただく皆さまに、今日よりも明日、明日よりも明後日、大きな喜びと感動をお伝えしていきたい。そのためにも、一生鍛錬、命ある限り修業していきます」
(2017年2月13日銀座「楼蘭」にて)
※本記事は季刊「立教」240号(2017年4月発行)をもとに再構成したものです(ウェブ版掲載にあたり写真を一部差し替えています)。定期購読のお申し込みはこちら
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プロフィール
PROFILE
中村 雀右衛門
1968年、立教小学校卒業。1971年、立教中学校卒業。1974年、立教高等学校卒業。1974~1980年、立教大学社会学部社会学科在籍。校友会特別会員。
日本芸術院賞(2008年)、紫綬褒章(2010年)、その他多数受賞。
1961年、歌舞伎座『一口剣』の村の子広松にて大谷広松を名のり初舞台。1964年、歌舞伎座『妹背山婦女庭訓』のおひろで七代目中村芝雀を襲名。2016年3月、歌舞伎
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い役を演じ、歌舞伎界をけん引する。
※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合がありますのでご注意ください。